西福寺 縁起

 

●開創縁起

 

 開山・良如上人が布教行脚の途中で敦賀港を過ぎたころ、笙ノ橋より西、光明の中に往立する阿弥陀三尊を見ました。光明をたどりこの地(原)に来たところ、白狐があらわれて山麓にいたると三尊はたちまちに大石と化しました。これを三尊石と呼びます。

不思議な気持ちで鍬をふりますと、地中より銀匙、銅鉢、和同開珎銭が出ました。これは仏法有縁の地であったこと、その昔の伽藍の跡です。上人はここに一宇建立の志を決しました。正平23(1368)年8月10日のことです。

後光厳天皇がこの奇瑞を聞き及びになられると、伽藍建立の勅許を下されました。足利義満に建立を手助けするよう命じられ、後には義持、義教も教書を寄せました。
同年11月仏殿の建立、12月には本尊を感得します。天皇より寺額を賜り、大原山西福寺と号しました。

 

(『西福寺誌稿』)


 

 

●霊像由来

 

 ●本尊 阿弥陀如来 立像三尊 慈覺大師作

 

 仏殿を建立しましたがまだ本尊がありませんでした。ある日、とある老僧が阿弥陀仏三尊を奉持します。精舎を建てて本尊を所望されていると風の噂に聞いた、これを寄付します、私は京都東山のあたりに住む者です、と言います。正平23年(北朝応安元年1368)12月15日のことでした。上人は不思議に想いながらも恭敬供養します。

 翌年、京都の商人が参詣しました。本尊をみて、これは小松内大臣平重盛公が東山にて48日間の別時念仏修行したときのご本尊であり、慈覺大師の作だ、燈籠堂にあるのを確かに見奉ったと言うのです。上人はこれを聞いていよいよ奇特の値遇に感じ、永くこの寺の本尊とすると定めました。

 

(『道残上人縁起取意』)


・本尊霊験


 若狭国多為に三郎太夫という人がいました。20歳のころ盲目となり、常宮(神社)に参籠して平癒を祈ったところ27日目の夜に西福寺に行き弥陀の加祐を請可するようにとの夢告がありました。西福寺でさらに27日間の本尊祈請しました。しかしその甲斐もなく、今生の望みよりも来世の苦報を救い給えと仏殿を出ようとした時、不思議なことに本尊をはっきり拝み見ることができるほどに両眼が開いたのでした。報謝として仏供米三反を寄進し、永世の供養に備えました。

(『道残上人縁起』)

 

 また、近江国南比良村の中村平蔵も重い眼の病気でしたが、本尊に参籠を続けること数日、すっかり平癒して絵馬を奉納しました。また同じく近江の小松村の人も同様の霊験を受けたと伝わります。

(『卍翁』)

 

 

 

 元祖大師在世の時、勢観房源智上人が北国勧化の師命により最初は当寺の地に草庵を結びました。後に、一乗谷のある人の請いにより同所に移り一乗寺を建立し念仏勧進します。帰依した道俗は数多ありました。その皆が、親となる元祖大師のご来化を請うのですが、北陸は積雪の時が多く、また京都での教化もあり暇もないので自ら鏡を持ち等身坐像を彫刻されました。一刀に十念を唱え仏舎利を籠め、17日間の開眼別時念仏を勤められ、二十五條の袈裟一肩を添えて勢観房に授与されました。これを一刀十念の御影と号します。

 

 勢観房はその霊像を護持して一乗谷に向かう途中、最初の結縁の地である当寺の草庵にて7日間の別時念仏を執行して一乗寺に安置しました。後に、朝倉氏戦亡に際し、一乗寺が兵火に罹り伽藍ついに焼き尽くす時、乱暴狼藉人等の為に霊像御袈裟及び新田義貞の遺物は転々として近江海津の白崎家に伝わります。後、白崎家に道也入道という人がでて、霊像の夢告をみること三夜に及びます。”これより北方にある有縁の道場あり、その地に遷座すべし”というのに従い、道也は霊像を護持して当寺に来ます。最初の結縁の道場であるとの因縁をきき御袈裟及び義貞の遺物と共に納めました。

『天正八年(1600)道残上人記文取意』


のち、白﨑道也は道残上人に帰依し、京都黒谷に顕岑院(けんじいん)を基立しました。子孫は永く当寺の檀中となります。

(『卍翁』)


  付聖徳皇太子、開山上人作

 

建徳2年(北朝応安4、1371年)春、開山良如上人の夢に高僧が現れて言いました。墨をつけた筆100管、墨をつけない筆100管を授与する、と。良忍上人が弥陀の示現を受けて融通念仏宗を開いた時にもこのような霊夢がありました。これが弥陀の霊告であるならば良忍上人の示現である、と鞍馬山に向かいます。毘沙門天に参籠したところ天王が告げ賜るには、大原に参詣し良忍の像を写して融通念仏を勧め末代の衆生を済度しなさい、と。上人は大原に行き、ついに融通和讃一篇を作り勧進しました。天王の像を作り、また、聖徳太子の再来と言われた良忍上人の像を作り当寺に安置しました。

(『道残上人縁起取意』)

 

 毘沙門天像はかつて別のお堂にありました。ある時火災があり、お堂は焼失しましたが、毘沙門天のお像は自ら逃げて、境内の外の岩上の松にありました。これを毘沙門岩と称してその地を毘沙門田と呼ぶこととしました。

(『傳記』)

 


 近江国小観音寺村報恩寺に毘沙門芝と称する地があります。言い伝えによれば、開山良如上人のころに毘沙門天が動いた跡です。また、この寺には夢でお告げをした灸点があり、代々の住職が相伝し、毎年、彼岸中にその点が灯され大勢の人が参詣します。また、当寺の霊像も同寺において再三開帳、結縁をしていると伝わります。

『卍翁』