西福寺とは

沿 革

 開山良如上人が諸国行脚の道すがら近江路を経て敦賀に遊化された折り、遥か西方の山中に光明輝く阿弥陀三尊の尊い御姿を感見せられて、その光明に導かれこの地に歩みを進め辻堂の辺りまで来られると、突如、一匹の白狐が現われ、上人を山の麓まで案内して忽然と姿を消した。すると見る間に阿弥陀三尊も大岩と化したと伝えられます。

 

 そこで開山良如上人は ”仏法有縁の地である” としてこの奇瑞の山腹に一宇建立を発願せられました。後この岩を三尊石と称え、現に当寺裏山の中腹にあり、白狐も守護神としえ御影堂裏に祀ってあります。時に正平23年(北朝応安元年、1368年)3月であります。直ちに朝廷の許しを受け、時の征夷大将軍足利義満公の助力を得て堂塔を完備し、”大原山西福寺”の寺号を勅賜され建立の大願を果たされました。


 爾来北陸の名刹として法灯相栄え、縁故寺院48寺、信徒1000名をこえる偉容を今日に伝えています。特に書院庭園は国の名勝庭園として有名であります。平成20年6月には全山が国の重要文化財に指定されました。

 

 

法然上人の教えと西福寺

 

 法然上人は平安の末、長承2年(1133年)4月7日、岡山県に誕生せられ9歳の時、父漆時国公が夜襲をうけ、不慮の死をとげられた最後の言葉、「仇打ちはするな、人間が助け合いながら救われる仏の道を求めよ」を一代の指標として叡山に登って出家せられ『知恵第一』と讃えられながら遂に43歳の時地位も学問も捨てて『浄土宗』を開かれ唯弥陀の本願によって『ナムアミダ仏』と口に称えるだけで、全ての人がお浄土に生まれる事が出来、後の世まで救われる仏の道を示されました。その教えの要は口に『ナムアミダ仏』と称えながら「おかげ様で」と生かされる生活を喜ぶと、自然に其処から人間の幸せも、社会の平和も仏のお護りの中に生まれてくると云うことです。


 西福寺は上人のお弟子が、京都に遠いこの地に教えを広めるより処とされた因縁からこの地方の名刹となって今日に及び、5月の御忌会、お盆の大寄りには地方の信徒が群参して、念仏の声が山間にこだましています。

 

 

勅願寺

 

 勅願寺とは、天皇・又は皇太子の勅願により建立された寺院です。

 

 西福寺開山良如上人が当地に仏法有縁の奇端を感得され、一宇建立の志を決せられた正平23年(北朝応安元年、1368年)、後光巌天皇は伽藍建立の勅許を下されました。


 西福寺史によると「後光巌天皇、奇端を聞召して伽藍建立の勅許を下され、時に足利義満に命じて土木を助けしめらる。依って同年11月、仏殿を建立し、翌12月本尊を感得す。天皇すなわち寺額を賜て大原山西福寺と号す。茲に於いて当時、越前の守護沙彌道将、藤原将経等の一門、山林田畑を寄付し各帰依の意を表し、建徳2年(1371年)12月、足利義満、敷地免除の教書を寄せ、元中7年(1390年)7月、後圓融上皇、勅願の院宣と賜ふ。爾来仏殿に於いて、宝祚延長国家安全を祷ること旦暮退転せず。依りて之を勅願殿と称す」(「西福寺誌稿」)

 

 

勝運の寺

 勅願所の院宣を賜りしのち、後小松天皇は、南北朝の動乱と国民の困窮を嘆き給い、一日も早い戦乱の終結と平和の到来を切望され、篤く帰依されていた当山開山良如上人に、越前敦賀の西福寺にて祈願するよう勅命を下されました。幸いにも仏天加祐あり、良如上人が祈願を始めてから2年目には戦乱は収斂し、南北の統一朝が実現し、後小松天皇が初代の統一天皇として即位されました。それ以後、越前敦賀の西福寺は戦勝と平和到来を祈願する勅願寺として、そして勝運の寺として興隆してきました。

 

 

 

越の秀嶺(徳川家との縁)

 

 当山は、徳川家が浄土宗に篤く帰依していたことにも縁るが、福井藩との繋がりが深い寺です。

 

 当山二十一世見蓮社正誉上人良和呑榮大和尚は福井藩主結城秀康公の庶子であり松平忠直公の異母弟にして、将軍徳河家康公の孫にあたります。呑榮上人は西福寺興隆に尽力された大徳であり、山内には、書院(結城秀康公寄進)、鬱金桜(松平忠直公御手植)、また宝物として越前松平家との関係がしのばれる古文書・文化財が多く遺されています。また、現在も越前松平家、徳川歴代将軍の位碑を奉安しています。


 徳川御三家・御三卿・越前松平家の方がご住職となられた寺は『秀嶺』と呼ばれ、西福寺は特に十五弁の三つ葉葵の紋を使うことを許された寺でもあります。その由縁により西福寺は『越の秀嶺』と言われています。

 

 

結城秀康と西福寺 


 當山は、徳川家が浄土宗に篤く帰依していたことにも縁りますが、福井藩との繋がりが深い寺です。


 秀康公は幼名を於義丸。法名浄光院殿森巖道譽運正大居士。
徳川家康の次男にして秀忠の庶兄なり。生母は長勝院永見氏(お万の方)三河池鯉鮒の神主志摩守小野吉央(後に村田意竹と称す)の娘なり。天正二年正月五日生まれ、永見氏の孕めるや築山殿(家康の正室)に憚る処あり、遠江浜松城外雄踏村に於いて産す。家康も亦子として養わず本多重次之を撫育し、同四年兄信康に因りて家康公と父子の対面を為す。


 同十二年十月豊臣秀吉の猶子と為り秀康(秀吉の秀と家康の康)と称し従四位下侍従に任じ羽柴三河守秀康となる。時に十一歳なり。同十八年秀吉の命に依り結城晴朝の娘の養嗣子となり結城秀康となる。

 

 武将としての器量は一流で周囲からも認められており、武勇抜群、剛毅で体躯も良かったと言われている。何よりも実父家康、養父秀吉・結城晴朝から大事にされた存在であった。
慶長五年、関ヶ原の役の功により越前六十七万石を与えられ、同十年正三位中納言に進叙さる。

 

 

 中納言秀康(結城氏) 福井藩祖 當山十八世天榮上人ニ帰依シ庶子竹治郎ヲ出家セシム 當山二十一世呑榮(敦榮)上人是ナリ 亦書院ノ木材ヲ寄付シ曼荼羅表具ノ修繕ヲ為ス

【西福寺寺誌】

 

 

 當山十八世天榮上人は武蔵國の人で、特に徳川家康公の寵遇を受け、慶長七年冬福井城主中納言秀康の招請に依り西福寺に晋山。同八年八月秀康公参詣して天榮上人に念佛の宗要を聞き大いに感化され、庶子竹治郎(八歳)を託して出家せしむ。之を敦榮(後呑榮と改名)と名付く。

 


 

白崎琴路(1716~1790年)

 西福寺には白崎琴路の墓がいまも残る。白崎琴路は江戸後期蕉門の俳人で『おくのほそ道』(素龍清書本、国重文指定)を譲り受け、新道野の西村野鶴に贈ったことで知られている人物である。享保元年(1716年)に敦賀の三家老の一家白崎家に生まれた。宝暦11年(1761年)10月12日、芭蕉が没して68年目の芭蕉忌に金ヶ崎金前寺に句碑(鐘塚)を建立し、同時に記念句会を催した。また追善集を編纂するなど、芭蕉の遺跡顕彰に尽力した人物である。

参考文献『敦賀市教育誌人物編』『敦賀市教育史通史編上巻』
  

 

 

西福寺の四季

 四季折々に趣ある西福寺を、市内フォトグラファーの作品でご紹介します。 

 

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