今月の言葉 (毎月 1日更新)

 

法然上人 一刀十念御自作座像(西福寺御影堂御本尊)

【令和7年3月】

   

「お浄土での再会を約束」

 

 小倉百人一首の『玉ノ緒よ絶えなば 絶えね永らへば 忍ぶることの 弱りもぞする』(式子内親王)と言うお歌をご存知でしょうか。           
 新古今和歌集に忍ぶ恋の歌として出てきます。


 このお歌を現代語訳すると、我が命よ、絶えてしまうのならば絶えてしまえ。生き長らえてしまうと、耐え忍ぶことができなくなり、私の心が弱ってしまうと困るから。となりましょう。


 式子内親王は、後白河上皇の皇女で賀茂の斎院(斎王)を務められましたが、病により建仁元年(1201)正月25日、53歳で崩じられました。三十六歌仙にも選ばれている優れた歌人であり、出家の法名を承如房(正如房・勅伝には聖如房)と申されました。


 式子内親王は立場上、恋を禁じられていた身であり、「玉の緒」とは身体と魂を結んで繋ぐ緒のことを指し、耐え難い恋煩いに対して、いっそうのこと死んでしまいたいという思いを歌にしています。「もぞする」とは・・となっては困る。長く生きていくことで、心に秘めたこの想いが、人に知られてしまうことを危惧されていたようです。


 長年、式子内親王の忍ぶ恋の想い人は藤原定家だろうとされてきました。しかし近年の研究により、その想い人は法然上人であったのではないかとされています。


 法然上人の遺文(西方指南抄)にある「正如房への御消息」(手紙)に、正如房が重篤な病になられ、法然上人に「もう一度、この世でお出会いしたい」とのお手紙を出されたのですが、この時、法然上人は、この世での出会いを断られているのです。


 「正如房への御消息」に、「ただならぬ様にて驚いております。私もお会いしたいと思いますが、お目にかかるとかえって執着する迷いになります。人は誰しもが遅れ先立つだけであり、どちらが先に死ぬのかもわかりません。そんな無情な運命の中で、お出会いすることは意味のあることではありません。夢幻のこの世を離れ阿弥陀一佛の浄らかなお浄土でお出会いしましょう。」とお念佛を勧められているのです。


 「正如房」は、仰せを受けて病床にありながら、お浄土で師と対面できると、あの世での自分の姿を実感し、涙ながらにお念佛を称えられたのです。
佐藤春夫氏は『極楽から来た』で「浄土の恋」と題し、法然上人は、阿弥陀佛の慈悲を彼女に取り次ぎ、その酬いは阿弥陀佛に捧げてほしかったのであろう。と述べています。


 法然上人は、お念佛を称えれば必ず極楽往生出来ると力強く励まし、浄土での再会を約束されているのです。臨終が迫る正如房に対し、このお手紙は何よりの心の安らぎになったに違いないと思います。やんごとなき高貴な人への情愛を込めて、細やかな配慮をしめされたのでしょう。


 法然上人は正如房さまのご命日の11年後の同じ日。建暦2年正月25日にお浄土へお帰りになっておられます。お二人は、お浄土での再会を喜ばれたことでしょう。

 

 

 

2025年3月1日 

二橋 信玄 (大原山西福寺 第51世)