今月の言葉 (毎月 1日更新)

 

法然上人 一刀十念御自作座像(西福寺御影堂御本尊)

【令和7年4月】

   

「施しは 誰に何をの 心捨て」

 

 「近頃の人はモノ言う檀那は大事にするけれど、モノ言わぬ檀那は大事にしなくなりました。だから寺も各家も衰退していくんです。」と言われた方がいます。モノ言わぬ檀那とは、亡くなった親や先祖のことですね。


 檀那とは施し、布施をする人を言います。恵み与え、広く行き渡らせる事が出来る人のことです。特に佛・法・僧の三宝に布施する人を檀家と呼ぶのです。布施とは、あまねく施す。梵語で檀那(ダーナ)と呼び、法施(ほうせ)・財施(ざいせ)・無畏施(むいせ)があり、僧侶がお念佛を称え先祖供養をして法を説き相手の利益になるような教えを説く布施を「法施」。檀信徒がその法施に対して財物などを施す布施を「財施」と申します。


 ちなみに、僧侶にお渡しする「お布施」は、ご本尊に捧げられ、寺院の維持費や活動費になります。報酬ではなく、あくまで感謝の気持ちを示す金銭なのです。


 そもそも、お布施とは、「自分の持ち物を無条件で他人に渡す」という佛教の行のひとつで、貧しいながらも僧侶にお礼したいと考えた人が、汚れた布を施して渡したというインドの逸話から、「お布施」という言葉が生まれたのです。


 そして、財施は決して僧侶にだけするものではありません。法事にご供養するのも財施、ダイコンやお米をお供えしたり、人にあげるのも財施ですね。
『施しは 誰に何をの 心捨て』と申すように、困ってられる方がおられたら、手を差し伸べるのも布施です。己を忘れて他に利することが施しです。


 布施とは本来、往生浄土の願行(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六波羅蜜行)ですから、大事なのは見返りを要求してはいけませんし、布施したものに執着があってはならないのです。布施させていただくのです。


 そして、他人に相手に恐れおののきを無くし安心させてあげる布施を「無畏施」といいます。『慈眼視衆生』皆が幸せになって欲しい。全てが救われるように、永遠の微笑みを備え給う佛の御姿はその極まりです。
お釈迦さまは「財力や智慧が無くても出来る七つの施し」の布施行を「無財の七施」と示されています。

 


一、 眼施(げんせ) 慈(いつく)しみの眼(まなこ)、優しい眼差しで接することです。


二、和顔施(わげんせ) いつも和やかに、おだやかな顔つき、微笑みをもって人に対すること。


三、愛語施(あいごせ) やさしい言葉を使うこと。しかし叱るときは厳しく、愛情こもった厳しさが必要である。思いやりのこもった態度と言葉を使うことを言います。


四、身施(しんせ) 自分の体で奉仕すること。ボランティアですね。身をもって実践することです。人のいやがる仕事でもよろこんで、気持ちよくさせていただくことです。


五、心施(しんせ) 思いやり。自分以外のものの為に心を配り、心底から、共に喜んであげられる、ともに悲しむことが出来る、他人が受けた心のキズを、自分のキズのいたみとして感じとれるようになることです。真心をもって接する。


六、床座施(しょうざせ) わかり易く云えば、座席を譲ることです。疲れていても、電車の中ではよろこんで席を譲ってあげることを言う。


七、房舎施(ぼうじゃせ) 雨や風をしのぐ場所を与えてあげること。

 

 以上が「無財の七施」で、何時でも何処でも誰でも、出来る慈悲の実践行です。人として当たり前の心得ですが、当たり前のことが出来ていない私たちは、日日の生活を反省し、思いやりの心を持って行動をすることです。しっかり心がけたいですね。

 

 

 

2025年4月1日 

二橋 信玄 (大原山西福寺 第51世)