大原山西福寺 第51世 二橋 信玄より
【令和4年10月】
「おねだり信仰とおかげさま」
お寺には沢山の善男善女が色んな願いを持ってお参りに来られます。その願いのほとんどが「請求書」の信仰で「おねだり信仰」であると、宗教思想の研究家のひろさちやさんが申されておられます。如何でしょうか。御存知のように、請求書とは代金をこれだけ頂戴しますとお願いするものですね。
お賽銭を投げるときは、執着の心が無くなるわけですから素晴らしい瞬間なのですが、人間は後がいけませんね。100円玉を投げて、どうぞ1億円当たりますようにと願っている。人間は欲の深い情けない生き物ですから「おねだり信仰」と言われても致し方ないですね。
昔、中国禅宗の祖と言われている達磨大師と梁の武帝の話があります。梁の武帝は多くの寺を建立し、お寺に沢山の寄進をされた奇特な方でしたが、少々自慢高慢の心の強い方でした。ある日、達磨大師に対して、「私は、お寺に多くの貢献をしておるから、きっと多くの功徳・ご利益がいただけるでしょうな」と尋ねられたのです。其のとき、達磨大師は一言「無功徳」「信仰とは、おねだりする物ではない、仏を信仰して、ご利益を頂こうとか、功徳を頂こうと思っても無理なこと」と一喝されたのです。
たとえば、小さな子供が、お買い物して、見返りに小遣いを貰ったり、ご褒美を貰うのと同じことで誠に幼稚なおねだりだとおっしゃるんですね。
法然上人の『つねに仰せられけるお詞』に「いけらば念仏の功つもり、死なば浄土へまいりなん。とてもかくても此身には、思ひわづらふ事ぞなきと思ひぬれば死生ともにわづらひなし」と申されています。
老いも若きも、男も女も、学問が有ろうと無かろうと、全ての人が、一人も漏れることの無い、お念仏の道を行けとお示しくださったのです。仏の救いをひたすら信じ、ただ口に南無阿弥陀仏と称えたならば、必ず阿弥陀仏は救いとってくださるのです。
諸行無常の世の中、辛い事もあってあたりまえ。お念仏を称える中に、受けねば成らぬ縁は素直に受け取ってゆく力が必ずわいてくるのです。
念仏者は、必ず仏の加護を頂いて、極楽に生まれる為に、何も思い煩うことは無いのです。ただ、南無阿弥陀仏と素直にお称えいたしましょう。
「難儀もお陰と噛み締めて」お念仏の中に、今を力強く生き生かさせていただきましょう。
2022年10月1日
二橋 信玄 (大原山西福寺 第51世)