法然上人 一刀十念御自作座像(西福寺御影堂御本尊)
【令和6年10月】
「急がねば日が暮れる」
人生は縁に始まり、縁によって終わる。この世に人として尊い命をいただいたのも縁。諸行無常の世なれば会いたくない縁も有れば、恋焦がれてヤット出会えた縁も有りましょう。石に躓くのも縁と申します。全て因縁ごとなんです。
『親の縁によって生まれ、衆生の縁によって生かされ、仏の縁によって浄土に帰る』これは、お念仏を喜ぶ者の心です。
『急がねば日が暮れる』とは、山崎弁栄上人の言葉であり、その意味は、文字の如く、急がないと日が暮れてしまいますよとの教訓であります。朝上った太陽は必ず夕方には沈みます。明るいうちに、しておかねばならないことは、チャンと、しておかないといけません。曹洞宗の道元禅師も『徒に 過ごす月日は 多けれど 道を求むる 時ぞ少なし』と詠っておられます。今しておかねばならないことは、薄々は判っているのですが、未だいい、未だ良いの心が、怠けの心を起こし、せねばならない事をせず、しなくてよいことばかりして、時は徒に過ぎてしまう。そして、日が暮れようとした其の時に始めて「あーシマッタ」、と歎いているのが私たちであります。まあ良い、明日また日が昇るから・・と楽観して何ら危機感の無いのが私たちであります。
それではいったい私たちは日が沈まぬうちに『何を急いでしなければならないのでありましょうか』。
我々はこの世に命を頂いた時に皆、亡くなって行かねば成らぬ種を持っているのです。今、元気で居られる私たちは、未だ亡くなっていかねばならない縁に出遭っていないだけです。お釈迦様は『生き死にの縁は不定なり』と申され、諸行無常をお説き下されています。「今日は存すと言えども明けなんまでまた保ちがたし」明日のことは誰も保証は無いのです。
日本列島は地震大国で毎年のように大きな地震が各地を襲っています。台風の災害もしかり、天災に人災、事故や事件によって毎日どれほどの尊い人の命が亡くなって行くことでありましょうか。
850年前、我が宗祖法然上人は、諸行無常なればこそ、老いも若きも、男も女も、学問が有ろうと無かろうと、全ての人が、一人も漏れることの無い、お念仏の道を行けとお示しくださったのです。
お念仏によって、今を力強く生きることができるのです。
「急がねど 旅のしたくは 整えり 迎えの船の 何時来るとも」
何時、迎えの船が来てもいいように、お念仏をお称え致しましょう。
仏の救いをひたすら信じ、ただ口に南無阿弥陀仏と称えたならば、必ず阿弥陀仏は救いとってくださるのです。
お浄土へ行く事を往生と申します。
浄土へ往生する為に、この世に人として命を頂戴してきたのです。其のためには、ただ南無阿弥陀仏とお念仏を称える日暮しをいたしましょう。
2024年10月1日
二橋 信玄 (大原山西福寺 第51世)
2021年(令和3年)10月より、毎月1日に掲載しています。